NO.26東京スリバチ学会会長と行く渋谷のまち巡り 2-2

代々木八幡様にて。結婚式典を挙げに神殿に入る新郎新婦と時を同じくして。

代々木八幡様にて。結婚式典を挙げに神殿に入る新郎新婦と時を同じくして。

代々木上原に何気なく残る谷への下り坂。暮色が迫りますが、歩くは楽し!

代々木上原に何気なく残る谷への下り坂。暮色が迫りますが、歩くは楽し!

杜春会東京特別企画第5弾 
東京スリバチ学会会長と行く渋谷のまち巡り~  その2

 
松濤の閑静高級住宅にため息をついて、首都高速が地下を走る換気塔を見つつ歩きます。そこはかつての三田用水の経路。三田用水は品川五山巡りでも教えて頂きました。東大駒場キャンパスへ。本郷の三四郎池にこと寄せた通称一二郎池を拝見。これは知らなかったし、駒場キャンパスの佇まいに、青葉山のそれがだぶります。続いて富ヶ谷の非常に典型的なスリバリを抜けて宇田川水系へ。前回の浜町川の暗渠を思い出すような細い路を代々木方面へ。代々木八幡宮は、原始からこの辺りでは最も高地に位置しているとのこと。夕刻この時間に厳かな結婚式を挙げている新婚に幸あれ、と祈りながら集合写真。再び宇田川水系に戻り、幡ヶ谷駅近くまで足を伸ばして玉川後の緑地公園へ。こちらは尾根伝いの宇田川とは全く異なる水の路。半ズボンで駆け遊び育ったそうだ青山さんの元代々木町。似合わず都会っ子である。また下って宇田川もう一つの流れをたどります。これまでも意外なくらい丘あり谷ありです。ここもまた落ち着いた住宅地である西原を経由して、狼(おおかみ)谷。とある独立行政法人の、私地なのでしょうが、皆川さんは堂々と先導なさる。その先に、まるで人目を避けるような古池が。「これが今日最後の水源地です。」と言われ、なるほど私達はかつての水の流れそのものを歩いたんだなあ、と実感します。代々木上原での散会はちょうど日没時。足元から寒さが一挙に忍び上がります。本日も10km以上は歩いています。が、改めて歩くということが、いかに自然な人の行為かを感じた今回でした。話ながら歩くというのはやはりいいものです。散会後は15名で代々木上原駅近くの焼鳥屋へ。なかなか美味しくてそれでも一人4,000円はしませんでした。杜春会以外のメンバーとの懇親も4回目になりますが、もはやそれも恒例。いつもながら今回も皆川さんにはありがとうございました。歴史の、まちの記憶を惜しげもなく分け与えて下さいました。次回は?と既に問いかけも頂いています。今回はそれを決めませんでしたが、私としてはまたやりたい。杜春会の皆さんにもっと集まって頂きたいし、その予感もしています。 写真左:代々木八幡様にて。結婚式典を挙げに神殿に入る新郎新婦と時を同じくして。写真中:宇田川のあった路地。「初台橋」は意外に昭和34年竣工とあった。写真中:代々木上原に何気なく残る谷への下り坂。暮色が迫りますが、歩くは楽し!

NO.26東京スリバチ学会会長と行く渋谷のまち巡り 2-1

写真左:松濤公園で全員集合。風は冷たいけれど、期待感がそれに勝る。

写真左:松濤公園で全員集合。風は冷たいけれど、期待感がそれに勝る。

写真右:駒場東大キャンパスの一二郎池。こりゃあ、ちょっとした都会の渓谷だ。

写真右:駒場東大キャンパスの一二郎池。こりゃあ、ちょっとした都会の渓谷だ。

杜春会東京特別企画第5弾 2016.12.10(土)13:30~
~東京スリバチ学会会長と行く渋谷のまち巡り~  その1

 
渋谷のスリバチは水源たどりにありました。
文責 森本和人(29回生)
 
同窓参加者(敬称略):特別講師 35回皆川典久(東京スリバチ学会会長)圓山謙一(15)、小野正俊(22)、寺田喜宣(29)、小沢哲三(30)、佐武直紀(31)、織茂俊泰(32)、青山睦(34)、高橋英子、木下定(35)、安田章子(37)、飛ヶ谷潤一郎(44)、遠藤貴弘(58?)東京スリバチ学会 他 より:13名 (国交省、世田谷区、小田原市役所の方も)幹事 木下定(35)、森本和人(29)  以上街歩き:27名 懇親会:15名 2014年6月28日初企画UDS㈱さんの見学、2015年10月11日の『品川五山巡り』、今年2月13日『六本木スリバチ巡り』、9月10日『日本橋まち歩き』に続く第5弾です。いまや杜春会東京恒例の企画と申し上げます。今回も、幹事35回生木下さんの同期皆川典久さん「東京スリバチ学会」会長にお世話になりました。 今回杜春会からの初参加は6名。上京なさる機会もあるとはいえ、今回のために駆けつけて下さった飛ヶ谷先生。高橋さんと安田さんには女性初のご参加。30回小沢さん、32回織茂さんは東京の集いで案内を見さるなどして参加を頂きました。最若手で、何回生かも分かっていない遠藤さんの嬉しい参加。皆さんに感謝。ありがとうございました。東京スリバチ学会からも多彩な皆さんの参加を頂きました。もはや顔なじみの方も多く、肩が張りません。初めての方々とは所属や仕事の話などしてすぐ仲良しに。寒風巻く「神泉」駅に集合。皆川さんからいつものように現在・過去の地図を頂き、駅すぐ近くで「かつての水源がここにもあります。」とうかがい、水の流れに関係ある行程かな?と。なるほど谷状の道を抜けて松濤公園。その池は今も湧水があるようです。 写真左:松濤公園で全員集合。風は冷たいけれど、期待感がそれに勝る。写真右:駒場東大キャンパスの一二郎池。こりゃあ、ちょっとした都会の渓谷だ。

NO.25 第3回若手の会 1/2枚目

写真左:最初のスリバチ「我善坊谷」へ。うわぁ、スリバチだ!

写真左:最初のスリバチ「我善坊谷」へ。うわぁ、スリバチだ!

写真右:丹波谷を下りきって、見返しする参加者の面々。ウーム、スリバチを来た。

写真右:丹波谷を下りきって、見返しする参加者の面々。ウーム、スリバチを来た。

杜春会東京「若手の会」企画第3弾 2016.2.13(土)1330
~東京スリバチ学会会長と行く六本木周辺凹凸巡り~  その1
文責 森本和人(29回生)
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同窓参加者(敬称略):特別講師 35回皆川典久(東京スリバチ学会会長)
水留英昭(3)、下城次郎(6)、有賀慧至(12)、圓山謙一(15)、中野隆(20:ご令嬢とともに)、
森田元志(28)、寺田喜宣(29)、佐武直紀(31)、井上幸夫(32)、菊地史春、佐藤克久、
佐藤武志(37:武志さんは懇親会のみ)、田中将玄(53)
東京スリバチ学会より:3名の女性含め計5名  一般から小澤様、三井様、渡辺様
幹事 木下定(35)、森本和人(29)  以上街歩き:24名 懇親会:15名

 2014年6月の初企画、昨年10月11日の今回と同様主旨での『品川五山巡り』に続く第3弾です。若手の活性化を通じて呼びかけを行いました。今回も、幹事35回生の木下さんの同期皆川典久さん「東京スリバチ学会」会長の活躍に便乗、具体的な内容も再び全てお世話になりました。
昨年10月の会直後には今回の日程、コースは決めており、その通り実行するのですから素晴らしい。
 今回は杜春会東京同窓会中興の祖ともいえる水留、下城両大先輩にも参加を頂きました。まことにありがたく、気ままな雰囲気にちょっとした緊張感をもって六本木一丁目駅に集合しました。折から低気圧の成長に伴って巻きあがる南からの風。最高気温は18℃くらいでしたろうか。身体は最高気温でも10℃程度の最近に慣れていますから、服装が難しいことでした。
 皆川さんの準備による各年代の地図を片手に、六本木一丁目駅を出発。尾根筋の屋敷跡を中心とした広い土nに林立する高層建物を横目に、「我善坊谷」をじっくりと。六本木交差点から伸びる外苑東通りの裏にはこんなスリバチ、スリ墓地が。イメージはある六本木の街の裏にはこんな相貌もあったのでした。あちこちに「Mビル管理」の看板あり。ああ、いずれまた街が様変わる。

NO.25 第3回若手の会 2/2枚目

写真左:檜町公園で。時間的には中間地点くらい。さあ後半へ向かいます。

写真左:檜町公園で。時間的には中間地点くらい。さあ後半へ向かいます。

写真右:全員の後ろには時間が止まったような元麻布のスリバチ住宅地。なんとなく懐かしい。

写真右:全員の後ろには時間が止まったような元麻布のスリバチ住宅地。なんとなく懐かしい。

東京杜春会「若手の会」企画第3弾 2016.2.13(土)1330
~東京スリバチ学会会長と行く六本木周辺凹凸巡り~  その2
文責 森本和人(29回生)
 
 前回同様、こんな機会がなければまず歩くことはないスリバチ凹凸の数々。得難い街歩きとはいえ、スリバチを楽しむこと、これ登り降りが同義にして宿命。ましてや季節はずれの暖気。80歳を過ぎておられる水留さんには全10kmの行程はいささかお辛いか、と。列も長く伸びるのでありました。ペース合わせて寄り添う木下さんの姿もありがたく、完歩懇親のビールはひと際うまかった。檜町公園での一服、乃木神社では婚礼に逢い、毛利庭園の賑わいを過ぎ元麻布のスリバチへ。壇上の土地の下は下級武士の住む組屋敷跡。軒を接する低層住宅の間にぽっかりある公園では欧米人家族の子供ばかりが嬌声を上げて遊ぶ。有名なガマ池を拝見して仙台坂を下ればゴールの麻布十番。ちょうど3時間半、心地よい疲労感とともに街の歴史、地形の襞を五感で感じることのできる時間でした。
 麻布十番のポケットパークで解散後は近くの居酒屋へ。36回の佐藤武志さんは懇親にわざわざ、またスリバチの会として参加された女性2人も加わってくれて、談論風発。これもまた楽しい時間。ビールと水餃子、メンチカツなどで疲れを癒しながら今日の振り返りと互いの近況などを語り合いました。しっかり身体を動かした後の酒肴は何ともいえない満足をもたらします。今回もまた得難いリフレッシュになりました。
 参加下さった皆様に改めて御礼申し上げます。また、再びに同窓の気安さ、よしみという甘えに最大限応えて下さり、我々を誘導して下さった皆川さんに心より御礼を申し上げます。
  次回もまだありそうです。「参加しないのは勿体ない!」と自信をもって申し上げます。
  それにしても小生のカメラも露光調子を得ず、ややぼんやりの写りは皆様に申し訳なし。ともあれ古くて変わらぬ課題は、こんな企画が知られずにいる会員も数多くいらっしゃるであろう事実。せめて知って頂くにはどうすればいいか。カメラのことよりそれこそが当面の大事。
 にぎやかな杜春会へ。皆さまお一人おひとりのお力頂戴したいものと思いました。

NO.24 凸凹を楽しむ地形散歩のすすめ

(図版1)いろは横丁で行われたブラタモリのロケのワンシーン

(図版1)いろは横丁で行われたブラタモリのロケのワンシーン

(図版2)城南五山と呼ばれる都心南部、凹凸地形の鳥瞰図

(図版2)城南五山と呼ばれる都心南部、凹凸地形の鳥瞰図

凸凹を楽しむ地形散歩のすすめ皆川典久(35回生)NHKの人気番組『ブラタモリ』の効果もあって、坂道をめぐってその名の由来を調べたり、古地図と見比べながら町をくまなく散策したりと、身近な場所でも意外な発見があり知的好奇心が刺激される、そんなマニアックな町歩きがちょっとしたブームのようですね。自分も10年ほど前から、東京の凹凸地形の不思議さに誘われるよう「東京スリバチ学会」なるオタクなサークルを立ち上げ、東京特有のスリバチ状の窪地を歩き回り、記録を続けてきました。少人数で始めた活動ですが、いつの間にか参加者も増え、2012年には『東京スリバチ地形散歩』(洋泉社)なる本まで刊行させていただきました。実際に歩いてみると分かるのですが、町の文化や歴史って、その土地ならではの地形や立地条件に深く関係しています。地名の多くは地形的特徴から付けられたものだし、町の成立過程や繁栄の理由とは、土地の固有性に起因するものが多いのです。単なる町歩きかもしれませんが、地理や地学といった専門分野にとどまらず、歴史学や社会学、そして都市計画学など分野横断的な知的な冒険が楽しめちゃうのです。『ブラタモリ』という番組も、そんな可能性を示してくれたのだと思っています。(図版1)いろは横丁で行われたブラタモリのロケのワンシーン先日、縁があってブラタモリ仙台編に出演させていただきました。「杜の都の由来とは?」など、クイズを出しながらタモリさんを地形的な名所にご案内しました。特に紹介したかったのは、仙台の地形的特色を活かして、政宗の時代に築かれた「四ツ谷用水」と呼ばれる用水路の存在でした。仙台の市街地は広瀬川がつくった河岸段丘の上にあるため水利に乏しく、四ツ谷用水は城下町の成立にはなくてはならない都市インフラだったからです。市民にも意外なほど知られていない歴史遺産ですが、番組をきっかけに多くの方が興味や関心を抱き、仙台の町を知ろうとする、一つのきっかけになればと思いました。仙台や東京に限らずどんな町の足元にも土地固有の地形は存在し、土地の特徴に関心を寄せ自分の足で実際に歩いてみると、町の個性や隠れた魅力を数多く発見できます。杜春会のみなさまは日ごろから見る目を養われているので、そんな町歩きを絶対に楽しめるはずです。そんな思いつきで先日「城南五山」と呼ばれる地域を、都内在住の杜春会のみなさまと半日ほど歩いてみました。意外にも自分でも見落としていた気づきや発見が参加者から数多く寄せられ、自分自身が逆に大変刺激をいただきました。そんなわけですから、ちょっとマニアックかもしれませんが、発見の喜びを分かち合える、とっても素敵な町歩きにご一緒しませんか?次回も東京スリバチ学会として、ブラタモリ以上のとっておきのコースをご案内いたします。歩きながらなら世代を超えてのバカ話しも弾むし、一緒に歩き切ると達成感さえ味わえます。まさに「書を捨て谷に出よう!」なのです。(次回は2016年2/13(土)、外国人も驚く六本木のスリバチ地形を歩く予定です!)
(図版2)城南五山と呼ばれる都心南部、凹凸地形の鳥瞰図
ゴール地点の品川神社・富士塚山頂で達成感を味わう参加者のみなさまの集合写真はNO23.2/2の「若手の会」集合写真と同じです。

NO.23  第2回若手の会 1/2枚目

最初のスリバチ「烏久保(からすくぼ)」を望んで。まさにテンション上がる!

最初のスリバチ「烏久保(からすくぼ)」を望んで。まさにテンション上がる!

烏久保への下り。「こんな階段まず普通の日々では歩かないなぁ。」「そうねえ。」

烏久保への下り。「こんな階段まず普通の日々では歩かないなぁ。」「そうねえ。」

杜春会東京「若手の会」企画 2015.10.11(日)14:30~ ~東京スリバチ学会会長と行く城南五山の凹凸巡り~  その1       

                                                                                   文責 森本和人(29回生)

 , 同窓参加者:特別講師 35回皆川典久(東京スリバチ学会会長) 20回中野隆(ご令嬢とともに)、29回寺田喜宣、31回佐武直紀、37回鈴木篤、53回田中将玄東京スリバチ学会より:長屋様、田邊様、中野様父娘様  一般から小澤様、三井様、渡辺様 幹事 27回黒田秀夫、28回猿田正明、35回木下定、29回森本和人

  昨年6月の初企画に続いて今年も若手の交流を図ろう、何かいい企画はないか、と幹事会などで検討して参りました。なかなかこれは、というアイデアがなかったのですが、幹事35回生の木下さんの同期皆川典久さんは今や知らない人がいない「東京スリバチ学会」会長。7月11日のNHK「ブラタモリ仙台編」にも登場され、仙台の地をスリバチの目線で案内し、タモリさんを欣喜雀躍させたのは記憶も新しいところでしたから、木下さん通じて皆川さんに登場願おう、と。8月に相談したところ、お忙しいにも関わらず、今回のルートと候補日程を即決で上げて下さいました。  これはもはや若手に限定するなど勿体ない。若手に限らずの企画にしようと、これもほどなく異論なく決定。学年幹事、職場幹事を通じて案内をいたしました。結果しかしながら残念ながら、参加者は極めて低調。同幹事から返事すらない期、職場があるに及んでは、どんな企画も徒労というもの。そのことについては変わらない課題。  参加者が少ないということはその分だけ皆川さんの声がよく聞こえる贅沢を享受できるというもの。低調さは放っておいて、途中合流する寺田さんを除く17名が遅れなくJR目黒駅に集合。午前中の雨もやみ、曇天ながら風もない暑からず寒からず。適度な湿気がむしろ心地よい中出発したものでした。

NO.23  第2回若手の会 2/2枚目

島津山を経て「道場谷」を上る。寺が多く、かつては寺に道場が併設されていたから

島津山を経て「道場谷」を上る。寺が多く、かつては寺に道場が併設されていたから

何カ所も写真はあるが、相当飛ばして品川神社にて。「富士塚」にも登りました。

何カ所も写真はあるが、相当飛ばして品川神社にて。「富士塚」にも登りました。

杜春会東京「若手の会」企画 2015.10.11(日)14:30~ ~東京スリバチ学会会長と行く城南五山の凹凸巡り~  その2       

                                                                                     文責 森本和人(29回生)

  この機会がなければまず歩くことはないスリバチ凹凸の数々。皆川さんが用意頂いた3種類の地図と正確なルート表現で、今の立ち位置を確実に理解しながら確認する凹凸の様、それに添えられる予習万全にして、押しつけがましいところが全くなく自然に入ってくる皆川さんの解説。周囲をきょきょろ見歩く18人の集団ですが、同好の士集団のため、また裏道多いがゆえに人通りも少なくて特別な恥ずかしさもなし。幾つかの「谷戸(やと)」、花房山、池田山、島津山、八つ山、御殿山の五山。仙台藩ゆかりの島津山袖ヶ崎神社。終点の眺望突出する品川神社。そこから眺める小生毎日通勤に使う京急電車の赤い車体の愛おしさ。恐らく一万歩程度、2.5時間があっという間。現代においてなお感じられる深山幽谷気配の数々。心地よい脚の疲労を伴って、街を形成する歴史の襞を五感で感じ、互いに「そうなんだ」、「なるほど」と、身体に含め聞かせるような思いのする時間でした。  品川神社で解散後は旧東海道に、今回の参加者でコンサルタントの田邊さんが構えたレンタルオフィス「うなぎの寝床」を見学。近くの九州料理店で慰労会。ビールと博多餃子、もつ鍋などで疲れを癒しながら今日の振り返りと互いの仕事ぶりを語り合いました。臓腑に浸みる酒が最優先、何か新しい企画だとか提言ができるといったことはなかったかもしれません。何よりも共通の歩行感覚をもって心地よい疲れに乗せて、互いの今を語り合うのは得難いリフレッシュになりました。  参加下さった皆様に改めて御礼申し上げます。歩きながらの色んな話も脳が喜んだ。  何よりも同窓の気安さ、よしみという甘えに最大限応えて下さり、我々を誘導して下さった皆川さんに心より御礼を申し上げます。 次回もありそうな気配ですよ。「参加しないのは勿体ない!」と自信をもって申し上げます。  もちろん、別に何か面白いアイデアがありましたらお寄せください。お待ちしております。

NO.22私の散歩道

私 の 散 歩 道
  私の住んでいる「仙台市青葉区中山」は名の如く“山”である。平らな道路は殆どない。 我が家は東斜面なので、朝日が良く当たり、はるかに太平洋が見える。2年前までは前の敷地もまたその前も更地だったので、庭の木陰で海を行くフェリーらしい大きな船を遠望しながらビールを飲んだり軽い食事をしたりしておった。 2軒の家が建てられた現在は、隙間から海を望む「パーシャル・オーシャン・ビュー」になってしまった。 運動不足の解消に毎日のウォーキングをと何回も決意したが、3日坊主に終っているのはこの地形の所為である、と本人は自己弁護している。 どちらに向かっても必ず登りが入るので、行きは登りにして帰りを下りにする。 ルートを選んでぶらぶら歩くが、ウォーキングなどと言うのはおこがましい。よその家の樹木の剪定に感心して、丸裸の我が家の金木犀を思い浮かべたり、家庭菜園を比較して、少なくとも我が家の支柱は丈夫で優っているなと秘かに優越感に浸ったりだから、時間ばかり費やして健康に資する事は期待できない。 まあ1週間に1度のゴルフと毎日の畑仕事、それに会費を払っているので仕方なく行くようなスポーツ・クラブでカバーしているから大丈夫だろうと自分を納得させている。 それでも桜の季節は良い。桜並木の多い道路と、近所に沢山ある小さな公園の桜、少し足を延ばせば東北福祉大学の運動場が綺麗だ。                      しかし冬は駄目で、雪は無いが北風の寒い仙台、年寄りは無理をしない事を第一としているので、万歩計はゼロの連続である。 散歩好きと言われる犬についても同じだから面白い。4年前に小型の老犬を預って散歩が私の役目となり、今度は嫌でも歩かざるを得ないので、これを契機に大いに ウォーキングと思ったのだが。                      老犬はメタボでもあり、下り道は威勢よく駆けるが、登り道になると道路にべったりと腹這いになりいくら紐を引いても動かない。抱っこしてくれと言うのだ。 「よし、動きたくなけりゃそこに居れ」と電柱に紐をくくりつけて帰る振りをすると、大慌てにキャンキャンと鳴いて反省の意思を表す。 妻も犬も散歩の同伴にはなってくれないので、せめてスポーツ・クラブの往復位歩いて行こうと片道20分の坂道を登ている。     伊藤 武(6回生)                              (2012.8)

NO.21新緑の建築学科新棟

新棟正面側

新棟正面側

新棟裏側

新棟裏側

杜春会会員の皆様 新緑の美しい時期となりました。連休も終わり、仕事に励んでいることと思います。週末の日曜日、青空が覗き出しましたので、新緑に萌える一番町と青葉山の写真撮影に出かけました。青葉通り一番町のけやきの復活はまだのようですが、2番丁通りとの交差点付近のけやきの新緑はなかなかよかったです。青葉通りの地下鉄・西公園駅の上には新しいけやきが植えられ、緑の若葉をつけていたのを車から確認いたしました。青空が次第に広がってきました。青葉山に向かいました。新緑を初めて迎えた新研究棟の写真を撮ってくださいとの神の声が聞こえてきました。写真を2枚添付いたします。皆様、季節感を大切に頑張りましょう。                   源栄正人(23)

NO.20「4年間の思い出」

卒業式

卒業式

「4年間の学部生活の思い出」

 この度、工学部長賞をいただくことになりました構造系五十子研究室の谷口洵と申します。卒業に際し、いままでの学部生活を振りかえるとともに、現在の私の研究について簡単に紹介をさせていただきます。 私が本学に入学した2011年は東日本大震災が発生した年でした。3月11日は地元岡山を出発する日で、市内の街頭テレビで津波の惨状を目にし、愕然とした覚えがあります。被災地の正確な情報が手に入らず、仙台で暮らすのも無理ではないかと危ぶんだ当時を思い出すと、現在平穏な生活を送れていることが不思議でなりません。 私の4年間の学部生活は、ちょうど東北復興の時期と重なっています。被災地に足を運び津波や地震の威力を膚で感じたこと、また復旧工事の現場で施工のプロセスを学べたことは、建築専攻の学生として非常に幸運だったと思っています。  さて建築学科で一番辛かった経験は何かと問われると、やはり設計の授業が思い浮かびます。友達と製図室に泊まり込み、図面や模型と格闘した記憶は忘れられません。問題が解決しないまま時間だけが過ぎていくことも度々あり、与条件をバランスよく吟味しなければならない設計の難しさを痛感しました。 とくに設計が始まって間もない頃は、自分の考えた案が宙に浮いた非現実的なものに思え、何を拠りどころに進めば良いのか悩んだ時期がありました。そんなとき私に道標を示して下さったのが五十子幸樹先生です。先生は構造の観点から空間を現実的に成立させる方法を説かれ、建築構造に美学と哲学があることを教えて下さいました。私が身の回りの建物に興味を持てたのは、この授業があったからだと確信しています。  学部4年時には縁あって五十子研究室に配属され、長周期構造物の変形制御を主眼に研究を行うこととなりました。今後想定される巨大地震では、ゆっくりとした揺れが超高層建物などの長周期構造物を共振させ、大きな変形をもたらす危険があります。卒業研究では超高層建物における大変形時の崩壊挙動をテーマに、解析的な検討を行いました。大学院では新しい制振・免震装置を用いた高度な振動制御の手法を、実験も踏まえて追究する予定です。建築物の更なる安全性確立や長寿命化が叫ばれる昨今、地道ではありますがこのような研究が将来必ず役に立つと感じています。 東日本大震災から4年が経過し、期せずして自分が防災技術を追究していることに気づきます。設計の授業で学んだ建築構造の美学は今も大切に胸にしまっていますが、更にこれからは構造物を守り、安全な都市をつくっていくため、エンジニアとしてできることに取り組んでいきたいと考えています。 自分の精神を鍛えてくれた仙台の地と、東北大学で出会った友人、そして先生方に感謝したいと思います。ありがとうございました。                谷口 洵 (63回生)

NO.19 各国の思い出

北島 英男(6回生)

私が今から四十一~二年前(昭和三十七年頃)から約十五年位前(昭和六十二年頃)迄、仕事の都合で世界各国を廻っていた時の思い出を、今ここでその記憶をたどり、その主だった国での感じた事を思いのまま書き並べてみました。 月日が経つのは早いもので、今から一昔以上から三昔以上も前の事であり、記憶が次第に失われつつある今日、定かで無いところも有るが、弱い頭に活力を入れ、“今の内に記録を残して置こうと”気持ちを奮い立たせ、この拙い文章を書き始めたら、何時の間にか私自身が昔の思いでにドップリ浸かり、次から次へと走馬灯の如く当時の場面が浮かび上がり、ドグマの世界に陥って行くのが認識されて来たが、なるべく有りのままを書き残す事を念頭に努力したつもりです。 なにしろ私の勤務年数の約三分の一を占める建設の為の海外生活であり、しかも若かりし頃の思い出なる故、今振り返って見ると多少の無茶や恥ずかしき行動もあり、又他人に迷惑をかけた事もある点をご容赦願います。 尚、この文中に出てくる出来事は当時の出来事であり、現在の各国の社会情勢とは多少異なる面もあるかと思いますが、この点も考慮に入れられれば幸いであります。 しかしながら、私の強く感じた事は“人間はどの国でも終極的には考えは同じである。根本は他人に対する親切さを持っている生き物である。誠意を持った話し合いで物事は解決する。”と云う事で、これを持って今後の信念にしたいと思っております。  ここに書かれた国以外に十数カ国を訪問していますが、特に印象が強く、私の記憶に残っている事のみをここに書き上げてみました。

平成十三年十一月記
平成十九年一月改訂
平成二十四年九月 年号挿入

No.1 1.バングラデッシュ(元の東パキスタン)
35年程前(昭和四十四年頃)東パキスタンの港町チッタゴンに肥料工場建設の為サイトマネジャーとして派遣された時のことである。 この国はインダス川の下流のデルタ地帯に広がる国で、雨期になると国土の約半分は水浸しとなり、泥水が容赦なく貧民窟の床下に入ってくる。なにしろ首都ダッカからベンガル湾岸に位置する港町・チッタゴン迄、距離にして約200kmあるが、その高低差が僅か約3mより無い。その上気候は暑く、じめじめしており、衛生状態が最悪で、あらゆる疫病が常に蔓延している。又これと云った産業も無く、国全体が貧しく、個人所得は日本の100分の1にも満たない状態である。従って日本では近年殆ど聞かなくなった罹病まで、野放しの状態にされている。政府はこれをなんとか防ごうと躍起になっているが、現在でもどうにも成らない状態が続いているものと思われる。その上人口は爆発的に増え、国土は日本の6割ぐらいの面積に約1億の人間が住んでいるとも云われている。産児制限を進めようにも大半の人間は文字を読めなく、広告は全て絵によって行われている。面白いのは、産児制限ポスターで、階段上に人間が乗っており、上に行くに従って人間の頭が下がり、苦悩を現している姿で、子供の数を減らす様表示しているものがあった事である。一般市民の家は竹で作ったいわゆるバンブ-ハウスで、床も仕切もないもので、家の中には竹で作ったベッドが置いて有るだけである。炊事も食器洗いも皆近くにある泥水で行っている。 ある日私はチッタゴンのNew Market(あちらの発音ではニュールマルケットとなる)に行ってみたが、あちこちの建物の片隅に、裸同然の家族が身を寄せ合ってうずくまっているのが見受けられた。よく見てみるとその一塊には、やせ細った人間が7・8人から10数人ほど固まっている。しかも五体満足な者は殆ど身受けられない。とても買い物するどころではなくほうほうの体で大通りに出てほっとしていると、何か私の腰の辺りに触るものが有るのでふと見返ったら、手が半分腐ってしかも片目がつぶれて無くなった(多分ハンセン病で失ったものと思われる)子供がその腐った手を差しだし「ボクシー」(お恵みを)と付き纏っている。しかも辺りを見渡すと近くに同様な子供が哀れな目でこちらを見詰めている。もしそこで金でも出したら、我先に集まって来て身動きが出来なくなると察知し飛んで逃げ帰った。宿舎に着いて息をも着かず薬用石鹸で身体を隈無く洗って置いた。  又次のような事もあった。我々が彼の地に派遣されていた時は、まだ独立国でなく「東パキスタン」と呼ばれていた。即ち宗教上の(イスラム教)結び付きから現在のパキスタンとインドを挟んで同じ国家であった。(その後我々が滞在中に印・パ戦争が勃発しその結果インドの後押しもあり独立し、現在のバングラデッシュと名乗る様になった)従って東西パキスタンを往復している旅客機は国内機として扱われていた。 ある時、我々の工事を監督するため、パキスタン政府から雇われたオランダのクラネンドックと言うコンサルタントと打ち合わせを終え、西廻りの航空機で西パキスタンのカラチに着き、そこから国内機に乗り換え、東パキスタンの首都ダッカに行く事にした。カラチ空港に着き入国審査や手荷物の検査を終え、国内機に乗り換えダッカ空港に着いて手荷物を受け取ろうとコンベアー台の脇で待って居たが、なかなか私の荷物が出て来ない。最後になって漸く出て来た荷物を見て愕然とした。バックは鋭い刃物で鍵のところを切裂かれ、鍵はこじ開けられ中身は殆ど無くなっていた。現地に居る部下に食べさせてやろうと、日本からわざわざヨーロッパ廻りで運んで来た蟹や貝の缶詰から、私の着古した下着までそっくり影も形もない。僅かに残っていたのは書籍が数冊だけだった。その場ですぐ大声で喚いたが航空会社の係員も誰も取り合おうとしない。むしろ「始めから無かったのではないか?」等と平気な顔をして言い出す始末。腹が立つやら悔しいやら・・・・・ 仕方なくその場を去るより無かった。後から考えてみると、”空港関係者でもそれ程貧しい生活をしていたのでは”の思いに駆られた。 2.酒と女に関して・・・・・・ 元来この国はイスラム教を信ずる人々が、インドから離れ独立した国である。従って表向きは酒も女もご法度の筈である。しかしこの掟はどうもイスラム教の聖地・メッカから離れる程ゆるくなる傾向にあるらしい。従って中には酒好きの人も居る。我々が使っている労務者の元締めにイナムと云う男がいた。彼はチッタゴン港の荷揚げ労務者の元締めでもあるらしい。毎晩7時頃になるとジョニーウオッカの赤を1本ぶら下げ、宿舎に私を訪ねて来て、私の部屋で私の部下と共に一杯やるのが慣わしになっていた。(禁酒国なので当時珍しいジョニ赤など、どうやって手に入れるのか不思議であったが。どうも入港する外国船から持って来るらしい)一杯やると言っても我々は夕食を済ました後であるし、大したつまみも無い。3~4人が集まり、小一時間もして1本が殆ど空になる頃に彼はご機嫌で帰って行く。 或晩いつもの如く、そろそろ1本空になりかけたころ、「Mr北島これから”ビールショップ”に行こう」と言ってきた。(彼は殆ど英語は話せなかったが”ビールショップ”だけは解かった)この国には酒を飲ませる店などあろう筈が無く「ビールショップ?」と聞き質したが、「心配するな!間違い無く在る」と手振りで言い返して来た。我々は怪訝に思い顔を見合わせたが、誰からとも無く興味が沸いてきて“行ってみよう”と暗黙の内に了解をしていた。さて、行くとならば急げ!とばかり、彼に連れられて外へ出たが、彼の姿が見えない。”騙されたか!”と思いしばらくして宿舎に入ろうと話して居るところに、彼は人数分の人力車を連れて来た。(当時彼の国にはタクシーは無く、総て自転車の後ろにリヤカーを付け、派手な模様の幌をかぶせた人力車が走っていた。これを彼の地でも”リキシャ”と呼んでいる)さて、我々はその人力車に分乗し、走る事約30分、不慣れな港町の夜の喧騒の中で離れ離れにならない様お互いに声を掛け合って、(散りぢりになると何処へ連れて行かれるか解からなく、しかも身包み剥がされる心配があったので)漸くある場所に着き全員人力車から降ろされた。其処は何処だかさっぱりわからない。イナムは手真似で付いて来るように指図し、狭い古びたコンクリート塀の間をずんずん進んで行く。と或る扉の前に立ち止まると覗き窓を開け何やら言葉を掛けている。間もなく扉が開けられ早く入る様に云われ押し込められた。其処で彼は門番に1ルピー(当時の日本円で約75円)渡し、又薄暗い中を進んで行く。しばらく行くと又扉があり門番が立っている。それにも1ルピー渡し扉を開けてもらい、漸く床のコンクリートにアンペラを敷いた12畳ぐらいの部屋に通された。部屋の前で靴を脱がされた我々は、誰からともなくその床の上に胡座をかき車座に座った。辺りを見渡すと天井から裸電球が2個ぶら下がって居り、壁の上部に50センチ角位で鉄格子の入った窓が2つ開いていた。まるで牢獄の様である。ただ違うのは壁の最上部に(日本で云う鴨居上)ズラリと4方向、女の顔写真が貼られてあった事である。皆でその顔写真の品定めをしているところにボーイらしき者が注文を聞きに来た。私は多少の酔いもあったので、「酒よりもあの女が欲しいと」イナムに言ったら、「あれだけ(女)だけは勘弁しくれ。幾ら俺でも女だけはここには居らないのでどうしようもない。」と言うので皆で大笑いになった。イナムは何やらボーイに言いつけていたが、やがてジョニ赤1本と水と鶏の唐揚げを運んで来た。唯これだけの物を注文するのに、これだけの警戒網を潜り抜けなければならない禁酒国の不自由さを、しみじみと感じさせられた。それに加えて生水は飲めないので、水割りを作ることもままならず、ウイスキーを生のままで飲まざるを得ず、ほうほうの体で引き上げた。(彼の地では水質が悪く、日本人が生水を飲むとトタンに下痢をする。我々の宿舎では水を一度沸騰させそれを冷蔵庫で冷やしそれを飲料水にしていた。時々ボーイが怠けて、ろくに沸騰もせず冷蔵庫に入れて置く事があると、誰かがすぐに下痢を起こすので分かった。) 我々がチッタゴンで肥料工場の建設をやっている頃、すぐ近くで神戸製鋼が鉄筋の生産工場を建設していた。 勢力・金力が有る男性が集まるところには、それを目当てとする女性がすぐ集まる現象は、キリスト教国であろうと仏教国であろうと、戒律の厳しいマホメット教国であろうと同じである。彼の地チッタゴンにも何時の間にか男性(特に日本人)を相手にする女性の集まる所が自然発生的に出来て居たらしい。 私はその頃はサイトマネジャーの職を、機器据え付けの部隊に引継ぎ日本に帰っていた。帰国後も打ち合わせの為彼の地に何度も出張する事があった。その時のことである。宿舎で夕食を済ませ、自室で寛いで居た時、食堂でワイワイ騒いでいた日本人の職人と私の部下が、私の部屋に押しかけて来て、「今からシャトルガットに皆で行く事になったので北島さんも行こう」と言って来た。そのシャトルガットとはどんな所かは薄々聞かされて居たが、こちらは日本から着いたばかりだし、その気も無く、尻込みをしていたが強引に連れ出された。ふとその時私の脳裏に”どんな所だろう、一度見聞するのも悪くないな”との思いがだんだん強くなり、自然に足取りも軽くなるのが分かった。やがて暗い道を20分位も歩いた頃、人影もない野原の中に竹で作った家畜小屋のような所に着いた。我々集団の誰かが私に黙って日本から取り寄せた避妊器具(ゴム)を1個渡し、「終わったら勝手に帰らず、必ず外で待っているように」と言い、皆で中に入った。入って驚いたことに、幅1メートル位の土間の中廊下の両側に、入り口に筵をぶら下げた小部屋が4~5個並んでいるだけである。床は土間から70センチ位の高さに、竹で編んだ粗末な物でその上に薄汚い毛布が1枚敷いてあるだけである。隣の部屋との境壁も竹で編んだ物で、透き通って隣室が見える。勿論壁は目隠し程度に設けられたものであり、その高さは1.5メートル程しかない。照明としては、中廊下の屋根から裸電球が3~4箇所吊るしてあるだけである。この時ふと思い出したのは、子供の頃、河原に掛かったサーカス小屋の支度部屋を、悪戯心で覗いた時のことであった。 この様な光景を見て、一時は折角その気になった体が、急にげんなりして行くのが解かった。その時その部屋入って来た女性を見て益々気を削がれて行った。化粧もせず真っ黒な顔に口紅だけ着け、髪には何の油を付けたのか異様な匂いがプンプンする。言葉は分からぬし、しよう事もなく握手でも、と思い手を出さしたら、手のひらは薄赤く、触るとヒンヤリしているが、手の甲はがさがさで真っ黒である。丁度猿の手を思い出した。 そうこうしているうちに、入り口の筵の外から「北島さん終わりましたか?」と云う声に助けられ、1ルピーを女に渡し、ほうほうの体で外へ出た。一緒に行った連中は全員”用”は達したらしい。帰り道つくづく考えたが、”郷に入ったら郷に従え”と良く言われるが、それよりも、健全な男性が3ヶ月も禁欲生活をすると皆この様になるのは不思議ではないのだと・・・・・人間の性とはげに、恐ろしきものかと・・・・・・・ 3.仕事に関する失敗談 その1 前にも述べた如く、我々が建設した工場は3重過燐酸石灰(肥料)を造る、あらゆる設備を備えた工場である。その中には、当然原料をストック(バラ積み)して置く倉庫も幾つかある。これらの見積もり時の設計に当たっては大阪の本社で行われた。その後契約されてからの詳細設計をわたしの居た工場に委託され、私は当時その仕事を任された。その見積設計図書をよく調べているうちに、倉庫の床の地耐力が不足している事に気が付いた。これに関して本社といろいろ協議した結果、当初は杭打ちで計画したが、見積コストを下げる為、これを外したとの事。”随分乱暴な事をするな?”と思い、このままでは耐力的には不足するので、本社のプロセス設計に掛け合い、荷重分散を考え倉庫の面積を広くするよう申し出た。しかし、既に工場のレイアウトは決められており、私の提案は倉庫のコンベアーやトリッパーの長さが長くなり、彼ら持分のコストも嵩むので受け入れられない、との回答であった。 その後何度もこの事に付いて議論を闘わせたが、どうもこちらの旗色が良くない。どうも会社が取った縦割行政の悪癖の賜物であった。そうこうするうち一度現地に行って、見積時に行われた地盤調査の結果をこの眼で確かめて見ようと云う事になり、2月初旬に日本から東パキスタンに向け出発した。現地に着き早速倉庫の建設場所に、深さ5メートルばかりの孔を掘らせ、その地層を丹念に調べ、青色の粘土層が続き、水分もあまり含んで居らず、圧縮率も低く、地下水位も5メートル以下で、平米10トン以上の耐力は充分見込めると思われた。それ故、その時は逆に前に行われたボーリング結果を怪しむ気になり、私の不安が解消され、元設計通り進める事とした。 さて、工場の建設もほぼ終わり、我々土建部隊は日本に引き揚げた後であったが、実際の原料を入れ、試運転をやっている最中に、”倉庫の床が沈んで鉄骨が傾いてきた”との知らせを受けた。私は頭を殴られたようなショックを受け、同時に心の隅で”やはり・・・・・・.”と叫んだ。早速現地に飛び、その現状を見てみたが、倉庫の床が、50センチ程(計算により予め沈下するであろうと推定された分だけ盛り上げて置いた)、の沈下を生じ、その分倉庫周辺の土が盛り上がっている。丁度柔らかい餡子餅を指で押し、餡子を外にはみ出さした様な状態である。これに対する打開策を考えたが、今更出来あがった建物を壊し杭打ちや地盤改良をやり直す訳にはいかない。いろいろ思案している内に、誰かが「倉庫の外に盛り上がった土を床の下に戻してやったらどうか?」と言い出した。これは名案とばかり、倉庫の外側に2メートルばかり煉瓦を積み、逆荷重を掛けたら床も戻り、鉄骨の傾きも直った。(倉庫に出入りするのには多少不便であるが現在もそのままにしている。) ところで、その原因であるが、”やはりあの地盤は弱い”と云う事である。私が地盤調査に行った時期は2月であった。即ち乾季である。これが6・7月の雨季になるとあの地盤は水をタップリ含んで泥と化す。日本では考えられない地盤であった。これでまた一つ勉強させてもらった・・・・・・ その2 これも私が日本に帰ってからの話である。 或る日突然”台風で工場の屋根が総て吹き飛んだ”と云うテレックスが現地から入って来た。勿論日本の基準(60メートル毎秒)以上の風が吹いてもビクともしない様に設計をしたつもりなので、”そんなバカな・・・・・・・・”と一瞬眼を疑った。確か彼の地に台風が吹いたとは聞いていたが? とにかく取る物も取り敢えず行ってみる事にした。 ダッカから国内線に乗り換えチッタゴン空港の近くで、航空機の窓から下を見降ろすと工場の屋根が良く見える。(飛行ルートは工場の真上を飛ぶことになっている。)しかし、工場のどの建物も屋根はなくなっていない。所々スレートが剥がれているが・・・・急ぎ航空機から降り現場に駆け付け、綿密に調べて見たら、屋根の鉄骨は全然ダメージを受けていないが、相当数のスレートが吹き飛ばされたり、ひび割れが入っている。”なんだ大袈裟な報告を”と思ったが、スレートが飛んだ理由がわからぬ。当時日本でも報道されたが、この台風で東パキスタンの海岸部・ノアカリの海岸で50万人の行方不明者や死者が出たと云われていた。(殆ど治水対策もなされて無く、しかも低地の所に竹を編んだ小屋を造り住んで居る状態では流されるのも当然である。)それで実際どの位の大きさの台風であったのか、まだ残っていた日本人に聞いてみたが、「日本の中程度の台風で大した事は無かった。」との事であった。そんな台風で出来建だての工場のスレートが飛ぶ訳はない。不思議に思っていろいろ尋ねてみると、彼の地にはスレートを押さえるフックボルトが無く、鉄筋を曲げネジを切ってそれを用いたと聞かされた。それで原因は分かった。そんなナマシ鉄筋で作ったフックボルトでは少しの力で伸びきるのは当たり前である。この時もコスト低減のため日本からフックボルトを持って行かなかった事を悔いた。若き日の過ちである。 早速約7万本のフックボルトを、日本から空輸させたのは云う迄もない。 エピソードを1つ 彼の国はご承知の如く、インダス川下流のデルタ地帯が、国の面積の8割を占めている。従って建築材料が乏しく、特にコンクリートの骨材のうち砂はほどほどに有るが、砂利は殆ど手に入らない。砂利の代わりに煉瓦を固焼きにし、これを砕いて用いている。その為コンクリートの強度は、砂利を用いた場合の3分の2位しか出ない。その事を頭に入れコンクリートの調合設計をしなければ大きなミスを犯す。もしどうしても鉄筋コンコリートの強度を上げようとするならば、鉄筋の量を大幅に増やさなければならない。契約時の設計図書を見てみたら、コンクリートの設計強度は平方センチ当たり145キログラム とある。(契約時にはよくその国の特異事情を参酌し、仕様書を作成しなければならない。)しかしながら、私が彼の地で実際に固焼きの煉瓦を用いてコンクリート練り上げ実験してみると、どうしても所要の強度が出ない。弱り果ててその分コンクリートや鉄筋を増やし対処する事とし、その旨を我々の監督しているチッタゴンの建設局に申し入れた。 さて話はこれからである。申し入れてからしばらく経って、建設局の局長Mrアメッドなる人物から呼び出しが来た。早速赴くと丈の大きい痘痕面のオッサンが部下を2~3人自分の脇に座らせ、まるで裁判官が被告人を見下す様な格好で私を座らせ、おもむろに「契約ではコンクリート強度は平方センチ当たり145キログラムになっている。どうしてもこれを守ってもらわねばならぬ。」と言い出した。私は、「この国には特にこのチッタゴンには砂利はなく、またセメントの質もあまり良くなく、所定の強度を出す事は難しい。(当時彼の国でセメントは製造されてなく、輸入に頼っていたので、製造日から時間が経ち、どうしても風化しがちであった。)その代わり鉄筋の量を増すなり、又は全体のコンクリートの量を増やす等をして、荷重に耐えるようにする。その計算内容は必ず提出し貴方の許可をもらってから作業に入る。」等の旨をクドクド説明したが、どうしても首を縦にふらない。又彼は「我が国には砂利が無いことは当初からわかって居る筈。この仕様書はそちらで作成した物である。所定の強度を出すためには日本から砂利を輸入してでもこれを守ってもらいたい。」といって聞かない。(私も若かったので、私の主張を曲げず強行に申し入れたが、今思うと、現在の契約社会に於いては、これは当然の事かも知れない。)1日目は物別れに終わり、翌日また話し合う約束を取り付け、がっくりして宿舎に帰ってきた。 翌日約束の時間に彼の事務所を訪れると、今度は1人である。しかも私を別室に呼ぶではないか。そして昨日の態度とは打って変わって低い声で「君の申し入れは良く解かった。重要な機器の基礎に用いるコンクリート以外は君の言う通りにしてよろしい。」其処で一段と声を潜め「その代わりテレビを一台くれ。14インチの大きさの物をな!・・・・・・ 」と言って来た。当時東パキスタンではテレビが出始めた頃で、日本円で14インチの物が12~3万位したろうか?日本人の収入の100分の1程より収入が無い彼等がとても手が出る代物ではなかった。私は”そんな事は訳無い”と思ったが、私の一存では決めきれないので、宿舎に帰って、プロマネに相談してみるとの意思を伝え引き下がった。しかしこれで全部問題が解決した訳ではない。残っている問題は”重要な機器の基礎に用いるコンクリート”である。これとて荷重に耐えるように設計すれば問題無い筈である。よし、翌日はもう一度ハードネゴをやり一気に片付けよう!と自分に言い聞かせ、プロマネにも相談し、許可を貰いその晩は眠りに着いた。 さて翌日、やはり2人で別室に入り、テレビの話をする前に、何故重要な機器の基礎に用いるコンクリートは許可の対称に入っていないのかを聞き質した。彼曰く「煉瓦は非常にポーラスな物である。従ってこれをコンクリートの中に入れると、雨季にコンクリート自体が水分を多量に吸い込む。これが乾季になるとその水分コンクリートが吐き出す。これを繰り返すことによって、やがてはコンクリートに亀裂が生ずる。それを防ぐ為である。」と。私は”なかなか理に叶った事を言うわい!まんざら素人でもなさそうだ!”と思ったがここで負けてはならじと”と意を決し、例え煉瓦を骨材として使用しても、コンクリートとして出来あがったものがそのようにポーラスである筈は無い。セメントの量を多くし調整すればポーラスな性質を防げる筈である。何か実験データでも有るのなら見せて欲しい。”等と食い下がった。彼は困った顔つきになったが、又声を一段と低くし「分かった。ところで昨日お願いしたテレビだが、21インチのしかもカラーにしてくれないか?そうすれば君の要求を総て飲もう」と言ってきた。私は開いた口が塞がらなかった。”21インチは良いとして、カラーとは何事ぞ。第一この国ではカラーの放映はしてないではないか!カラーの受信機があるからと云ってカラーで映るものではない。そのくらいの事が役人のしかも局長と云われる人が分かっていないのか!文明度に関しては、嗚呼ーこの程度の国か!これでは一般大衆は思いやられる。”この事を説明すると、今度は彼がポカンと口を開けていた。これでネゴは終わり。何も見返り品をやらずに、強引に私の理論を押し通した。 本当に、教育は大切だと・・・・・・ しかも、50年は掛かるなと ・・・・・

NO.18 29の会‘14秋の福島

磐梯熱海温泉『四季彩 一力』にて

磐梯熱海温泉『四季彩 一力』にて

郡山市郊外の故中山和彦さんのお墓参り。お母様と妹さんと。

郡山市郊外の故中山和彦さんのお墓参り。お母様と妹さんと。

 幹事 大竹 和夫
    高橋 郁夫
 補佐 牧瀬 研二
(文責)森本 和人

 本会はたまに食いたくなる定食みたいなものになりつつある。きっかけはやはりあの震災かもしれない。まだ傷みが生々しい昨年3月、南三陸町中心に現地などを訪れながら秋保温泉『蘭亭』で同期会を開催。そこで今回の福島の会が決定。1年半ぶりの9月27、28日。前回とほぼ同じ24人にて磐梯熱海温泉の『四季彩 一力』で今回を迎えた。

 直接旅館に向かう者を除く14人で、福島第一原発の復旧・保全の前線基地である広野町のJヴィレッジを訪問。今も毎日6000人が作業に専念されているという。大変な営為でありながら、多くの語りもない淡々としたたたずまい。

 旅館にはひとりの欠けもなく全員が集合。宴会始まって各自一分間近況報告をつなげば、いよいよ各自の地金現れてきて調子は上向き。ひと部屋に集まっての二次会がこれまたひとつの醍醐味。還暦もそう遠くないとなれば、それぞれの背負うことの重み、相対するものの多様さは人数分あり。どうやらしかしそういったものが途切れることのない丁丁発止にゆるーく溶けていくような感じがある。およそ口数が減らない者、口数少なくも笑をこらえるのか回顧に浸る者。心地よく船を漕ぐ者…。時に教養部の頃まで遡行し、いたぶりぎりぎり寸止めの揶揄あれば、さらりとかわすなり、真剣よろしく受け止めるなり…。青臭い同志の香りがある一方で、要(かなめ)にある者どもの日々の生臭さにどこか共感してしまうような話の数々。

 一夜明け、都合がついたもの16人にて、26年前享年30で天に召された中山和彦君を、お母様と妹さんの案内でお墓に参る。「ここに来れた。お前に会えた。お前の分も、俺らは手分けになっちまうが生きてやる。」

 杜春会ゆえの何かを特に意識してはいないかもしれない。もちろん恩師のあの頃や、先・後輩の今の話もおおいなる花ではある。けれど、50人前後という顔が見える数でひとつの期をなせるのは、杜春会の強みかもしれないなあ。突っ込みがいてボケもいる。まだまだ、とたかをくくっているが、マジ僕たちなども呆けていく。程度の差こそあれ皆一様に。制御できない社会の中にあって、ゆるーくつくり上げられた同期の会ってのは、たぐり寄せたり引き込まれたりする互いの分身かもしらん。…そう入れ込むこともないね。
 これからもよろしく、って言っとけばいい。
 

NO.17台原明善寮の思い出

 一昔とは10年と言われているが、年老いてからの10年間は駆け足で過ごしてきた様に早く感じられる。 私は学生時代、旧制第二高等学校の寮であった”明善寮”に住み、選挙で選ばれて委員長になり、一時期を過ごした事がある。この寮は完全な自治寮でありその運営は学生にすべて任せられていた。入寮に際しては、希望者にその家庭の収入証明(今思うとこの収入証明書はどうにでも作れた)を出させ、先輩の寮生が面接し、親の収入の低いものから順に許された。食事は”おじんちゃん・おばんちゃん”達に作ってもらったが、この頃は現在の如く物が豊富になかったので、食い物も粗末なものであった。しかしながら、夜9時になると残った夕飯は”ツバイ”と称して、タダで食える楽しみがあり、それを待っている人が多かった。この様にして、約180人居た寮生は皆お互いに睦み合い、楽しい生活を謳歌したものである。 この寮舎は明治の末期に建てられた木造2階建てで、北寮・中寮・南寮と3棟に分かれ、1部屋に3人住まいであった。そして半年毎に部屋替えをして、寮生総てが同室で馴染めるように組まれていた。気風としてはバンカラを旨とし、冬は破れたマントを着て登校する者も居た。中には「月下に曲線を描く」と言って2階から窓ションをする者が居て、それが元で毎年6月になると赤痢が発生し、市の衛生局が来て、消毒と寮生一人一人に尻からガラス棒を入れ赤痢検査をさせられた思い出がある。 又、全国的な傾向であったが、このころの明善寮は相当左翼的な考えに染まった学生がはびこっていた。私はこの思想は別に悪いとは思っていなかったが、彼らの考えには何となく”余裕”や ”遊び心”がなくギスギスした感じがして馴染めなかった。 その考えに反発する為ばかりではなかったが、私はひょんなことから社交ダンスを習い始めた。これに引きつられて多くの寮生が社交ダンスを習う様になった。当時は現在の如く多様な遊び事がなかったので、やがては誰が云うともなしに、寮の食堂を開放し、メッチェンを誘い込み、月に一度はダンスパーテーを開き青春を楽しむ様になった。 後に良く「北島は赤い思想の寮をピンク色に染め変えた。」と言われたものである。  約10年前、この頃の生活が懐かしく思い出されて、何とかあの時代の旧友と会ってみたいと思っていたが、やはり同時期に過ごした仲間の中に、私と同じ思いの人たちが数人居て、この人達が奔走してくれて何とか当時の名簿を手に入れ、この会合を開く段取りもしてくれて、松島の”一の坊”で「明善寮在寮者半世紀の集い」として開催する手筈が出来た。これが今から丁度10年前の秋のことである。 当日、久ぶりで現在の明善寮を見学しようと出席者全員で出掛けて見たが、旧寮舎はコンクリート造に替わっていた。そして給食設備は無く、自炊か外食する制度になって居た。ところが、自炊場はラーメンの食べかすや残飯で埋もれ、異様な匂い迄していた。部屋は一人部屋になっていたが、内部を覗いてみると散らかり放題だった。これを見て全員が「我々の時代と変わり、纏まりのない散らかり振りで、個人主義的な悪さが出て居る事を痛切に感じた。」と話合った。 この日集まった人数が50数名。昔話に大いに沸き、皆で寮歌を合唱し、懐かしい一夜を過ごした。翌朝帰りのバスに乗り込んだ時、誰からともなく「10年後またこの会を開こう」との提案がなされたが、間髪を入れずにS君が「10年後にはこの中の半分は死んでこの世には居ない」と冗談を言ったので、みな大笑いになった。 そこで、その後3年毎に場所を変えてこの会を開いて来たが、この度10月の中旬に場所も同じ”一の坊”で「明善寮在寮者半世紀の集い第4弾」を開いたが、集まった人は唯の15名であった。幹事の人が生存者総てに紹介状を出したが、殆どの人が”病気を持って居て、出席したくても松島迄の遠出は無理である”との理由であった。私も5~6人に誘いをかけたが、やはり病気を理由に参加できないとの事であった。 日本の男性の平均寿命は80歳になったとされているが、いみじくも当たっていると実感せざるを得ない現実を見せつけられた。何となく物悲しい気分にさせられた昨今である。在寮中の若かりし日のエピソードとして 私が明善寮に入寮した時にはすでに学生改革で新制大学が発足していたが、寮には未だに旧制二高生の残党(学生時代遊び呆けたがどうかの理由で、新制大学に入学出来なかった人)が4~5人残っていた。親からの仕送りは既に止められていたので、学校にも行けずにその日をアルバイトなどで過ごしていたもの思う。 この連中が悪さをする。新入生が入ってくると、(特にストレートで入ってきた人に対しては)月初めに渡される食券を”たかり”に来る。高校を出たばかりの若い人は、その脅しに怯えてつい食券を渡してしまう。又夏や冬休み中に部屋を荒らし、めぼしい物を持って行く。この事実を解っていても学生の自治寮であるため、警察の介入はなかなか出来なかった。しかし、”何とかして彼らを追い出さなければ、秩序が保たれない。”私はこの事を寮生大会に掛け、全員で一丸となり追い出す作戦に出た。 ある夜、彼らの一人が酒に酔って、私の居た委員長室に短刀を持ち込みそれを畳にグサリと突き刺し、「我々先輩を追い出すとは何たることか?殺すぞ!」と脅かしに来た。私はわざと平然として「殺すなら殺せ!しかし寮生全員が黙って居無いぞ!」と言って睨み会いになった。そのうち寮生がこれを聞きつけ集まって来た。その雰囲気を感じたのか、彼はスゴスゴと退散した。その後いくら自治寮とは云え学校にもこの件を届けなければならないと思い学校に通達し、教養学部の学生部長だった八木教授の助けを借りて、ついに追い出しに成功した。  又ある早朝委員長室の扉をガンガン叩く者がいるので開けてみると、屈強な男が3人つっ立っている。そしてズーズー弁で「俺は社会党の佐々木更三である。お前は学生のくせに自民党を応援するのか!」とものすごい勢いで迫ってきた。私は何の事か解らずキョトンとしたが、よく聞いてみると以下の経緯があった。 当時、仙台市長の選挙も真っ盛りで、自民党の岡崎候補と社会党の島野候補の一騎打ちの最中であった。前の晩寮生大会があり、その後食堂でコンパをやりワイワイ騒いだ後、全員で寮名物の大太鼓を持ち出し、仙台の繁華街に操出した。最後に仙台駅前でストームを組み寮歌を歌って解散した。 ところがそのストームの組んだのが、ちょうど岡崎候補の選挙事務所の前だったらしい。それで彼らはてっきり岡崎候補を応援したものと勘違いをしたらしい。私は意味がようやく解かったが、彼らの言い草があまりにも横柄なのでカーッとなり「学生が自民党に応援して悪い法律でもあるのか。あるならここでその文を出してみろ!」とやり返した。彼は口の中でもごもご言って居たが、「お前みたいな学生が居るから日本の国が亡びるんだ!」と捨て台詞を云って帰って行った。それから私は社会党がまったく嫌いになった。現在の社民党の衰退がその時既に見えて居た様に思われる。                      2014 10 25                      北島 英男(6回生)

NO.16 東京若手見学会の記その2 2014.6.28(土)16:00~             文責 森本和人(29回生)

UDSさんの本社事務所 中央テーブルは手前の人は立つことになります。奥はこれから座敷状になるとか。

UDSさんの本社事務所 中央テーブルは手前の人は立つことになります。奥はこれから座敷状になるとか。

見学後の懇親会。忌憚のない意見が出ました。

見学後の懇親会。忌憚のない意見が出ました。

 さて、なんとか若手を動かす何か…。これは先輩(に当たる)と言われる誰にでも言えること。「僕らが就職した頃、東京に出てきても身近に話しのできる先輩がいなかった。」という声も聞きました。けっこう切実なんです。大上段に振りかぶると思いだけが滑ってしまいますが、こういった声にしなやかにどれだけ応えられるか。試されているのは先輩(と言われる)僕らかもしれません。

 それにしても楽しい時間でした。事後は代々木駅前のモツ焼き屋に入って、上記したような声も含めて意見交換会。

 あまり大人数になってはお邪魔ですが、若手が活躍する、あるいは頑張った場を見にいきたい。とりたてて評判になるわけではない作品でもいいのです。そんな機会がありそうだったら是非声を掛け合って、できれば時々実施できるといいな、と、そんなことを感じた週末でした。

UDS株式会社さん http://www.uds-net.co.jp/
代々木ビレッジ http://www.yoyogi-village.jp/top/index.php

NO.15 東京若手見学会の記その1 2014.6.28(土)16:00~             文責 森本和人(29回生)

代々木ビレッジの前で 今にも雨が降り出しそうでした。Photo by 松浦さん

代々木ビレッジの前で 今にも雨が降り出しそうでした。Photo by 松浦さん

UDSさんの本社から臨む代々木ビレッジ 約700坪の土地の有効活用 写真の右奥にまで広がっており、レストランやヒーリングスペースがあります。

UDSさんの本社から臨む代々木ビレッジ 約700坪の土地の有効活用 写真の右奥にまで広がっており、レストランやヒーリングスペースがあります。

 

参加者 48回生 辻本祐介(UDS)
55回生 小池宏明 53回生 田中将玄 43回生 松井崇
幹事 40回生 松浦正一 35回生 木下定 29回生 森本和人(文責)


 杜春会の集まりに若手の参加率が低いというのはいつも話題になること。その若手の具体的な声を先取りすれば、「同窓の集まりにメリットはない。会いたい時には自分の意思で会いたい人にいつでも会える。」その通りかもしれず、大部分のところで同感せざるをえません。でも、そこをつき動かす何かないものか…。


 今年も杜春会「東京の集い」に向けて準備を始めている中で、少しでも若手に集まってもらえる機会がないだろうか、と思っていたところ、個人的にもかねてから杜春会の若手も活躍するUDSに興味があって(もっと言えば前身の都市デザインシステムにはゼネコンの頃営業に行った)、その作品を見たかった。特に計画系の若者は同じ思いがあるのでは?と今回の会を企画しました。

  銀座のLEAGUEという施設も考えたのですが、48回生の辻本さんからの示唆もあってご本人もそれを担当された「代々木ビレッジ」と目の前の同社オフィスを丁寧に案内頂きました(ご本人には二日酔いが残る中)。Q&A、やはり専門筋のプロ感あるやりとりはさすが。とにかく月並みですが様々なニーズとシーズを組み合わせ、空間価値最大限の発揮に向けて上手にしかも妥協なく進めておられる。が、窮屈感はなく、どこか楽しさも漂っています。まあ、ハチャメチャもあったみたいですけれど。ここでは詳細割愛します。

NO.14 平成25年度学位授与式及び祝賀会 報告 2014.5.9                    高舘祐貴(植松研究室修士1年、62回生)

 去る3月26日に仙台市体育館での学位授与式ならびにKATAHIRA10での祝賀会が執り行われました。本年度は建築学科においては卒業生46名(62回生),修士卒業生47名,博士卒業生7名の合計100名が学位を授与されました。
 午前中に仙台市体育館で行われた学位授与式は式に先立ち,東北大学交響楽団のマイスタージンガーの演奏から始まりました。体育館という演奏を行うには環境の悪い中,オーケストラの演奏で祝福をしていただけることはとても光栄だと感じました。今回の学位記授与式では大学全体で学士2442名,修士1689名,博士479名に学位記が授与されました。
 大学全体で行われた学位記授与式の後,KATAHIRA10で建築学科の祝賀会が行われました。乾杯の音頭と執ってくださった杜春会の会長でもあります源栄先生のあいさつでは,「何より両親に学位記をもらった報告と感謝の言葉を忘れないこと」との訓示をいただきました。両親への感謝は何にも変え難いものだということを強く感じました。乾杯の後,専攻長の小野田先生からの祝辞や青葉賞をはじめとした表彰やOBの先輩からの祝辞などがあり,最後は西脇先生の音頭により東北大の学生歌を斉唱し,閉会となりました。 


 震災から3年余りが経ちましたが,この間,1000年に1度ともいわれる大震災の被害を大きく受けた大学の一つとして我々は何を考えることができるか,我々は何をすべきかを深く考えさせられました。中には震災以降,今まで建築環境・計画など様々な分野で考えられていたこととは逆行する方向に進まざるを得ない部分もあることを感じ,とても複雑な思いを受けました。しかし,我々はこういった震災があったことを何かひとつのきっかけとし,さらに別の視点から様々なことを考えていく必要があると感じました。
 学位授与式での里見総長のお言葉の中には「震災を経験した我々にはより良い未来を創造していく義務がある」とありましたが,この言葉に込められた想いはとても深く,今後の社会に対して何か貢献できる人材になれるよう努めていく責任を感じました。
 来年度以降は青葉山の人間環境系の建物が完成するため,KATAHIRA10での祝賀会はこれが最後となるそうです。震災からの月日の経過を肌で感じつつ,これからも被災地の大学に通う学生のひとりとして様々なことと向き合っていきたいです。

NO.13 教皇フランチェスコの選出について 2013.6.23                 4年生 杉山綾子

  ローマ教皇ベネディクト16世が高齢を理由に生前退位するというニュースが流れてからほぼ2週間後、彼は2月28日をもって教皇をやめた。ローマはコンクラーヴェに向けて準備を始める。システィーナ礼拝堂は普段ヴァティカン美術館のチケットで見学可能なのだが、コンクラーヴェ中はもちろん入ることができない。観光客はミケランジェロの最後の審判が見られなくて残念だろうと思いながらも、私は例の煙をこの目で見ることができるのかとわくわくしていた。この時期のローマは偶然にも、教皇の他に首相も警察署長のポストも不在であり、「Niente papa Niente governo Niente capo delle polizie.」と言う文句と共に、かつてローマがこんなに自由だったことはあるだろうか!?というジョークを言う者もいた。コンクラーヴェが始まったのは3月12日の午後だった。その日は一度だけ投票を行い、結果は黒い煙。次の日は雨が降っていた。何回か黒い煙があがったころ、夕飯の誘いがあったため出かけてしまい、コンクラーヴェのことはすっかり忘れていた。トラステヴェレの美味しくて安いレストランでご飯を食べ終わったころ、「Occhio che abbiamo il nuovo papa. Vai lì a vedere, dai.」とメールが入る。白い煙があがったと報道されたらしい。早速タクシーを拾ってサン・ピエトロ広場へ行こうとするが、嫌な顔をする運転手。「サン・ピエトロ!?絶対カオスだよ、無理無理。歩いて行けば?」そう言いながらも乗せてくれ、よくわからない道を飛ばして15分後には広場の前へ着けてくれた。広場はこれまでにないほど多くの人で埋め尽くされていた。各国のテレビ局が中継を行い、自国の旗を振っている。私たちが広場に着いたのはちょうど新教皇おひろめの直前だった。よく見えそうな位置に滑り込み、その時を待つ。1人の枢機卿が大聖堂のバルコニーに現れ、歓声が静まると新教皇の名前を読み上げた。再びの歓声に混じり、アルジェンティーナ!と聞こえてくる。彼が奥へ戻ると、ついに本人の登場。爆発的な歓声と共に一斉にカメラやスマートフォンが持ち上がり、キラキラと輝く様は圧巻だった。そして止まぬ「フランチェスコ」コール。短いスピーチの後、広場中の人と祈りの言葉を唱える。最後は枢機卿たちがバルコニーに勢揃いし、手を振りつつの解散となった。広場から帰る人々は「良い人っぽいね」などと話す。アルゼンチンの旗を持った人が感動して泣いている。夢みたいな体験だったな、と思いながら地下鉄で家へ向かった。

NO.12 1978年・・・2011年・・・2012年 2013.05.14               29回生 忍 一幸

◎1978.06.12(mon)17:14pm 19歳
 1981年の建築基準法改正につながった「1978年宮城県沖地震」に、わたしは東北大学片平キャンパスの法文テニスコート(現在はナノ・スピン実験棟が建っている場所)で、遭遇しました。

 何となく汗ばむ暑い日だったと記憶しています。夕刻だというのに、我々、学友会硬式庭球部は、いつものように練習メニューをこなしていました、その時に、その「地震」はやってきました。コート上に立っていられずに、みんなで地べたに這いつくばって、「揺れ」が治まるのをジッと待っていたのです。地震が静まって、自宅まで徒歩での道すがら、ブロック塀が倒壊している長町界隈を通りすがり、家についたのは19時を回っていたと思います。
 我が家は、さりとて日常の風景そのままだったのですが、家の中に一歩踏み込むと、すべてが散乱していて、足の踏み場もない状態だったことを思い出します。当時教養部2年であったために、建築学科のある青葉山の建物の地震計が、記録的な数値を示していたことを知ったのは、翌翌日でした。


◎2011.03.11(fri)14:36pm 52歳
 仙台駅にほど近い、第一広瀬ビルの9階の事務所に戻ったのは、14時頃だったと記憶しています。パソコンに向かい、何かを調べようとしていた矢先に、下から突き上げるようなその「わざわい」は始まりました。
 地鳴りのような突き上げがあり、少しの間をおいて、激しい横揺れが襲ってきて、思わず自分の机の中にしゃがみ込んだものの、机自体があちこちに揺すられ、周囲の本棚(足元をカーペットタイルの上から金物でビス止めしていた)が倒れて、机の上に覆いかぶさり、どれくらい経ったでしょうか。 5分? 10分? 机に本棚が倒れて、なかなか出られず、やっと机から抜け出して周囲を見渡すと、すべてが倒れ散らばり破け、物という物がバラバラになっておりました。
 社長の渡邉(24回生)が、どこからかホワイトボードを持ってきて、社員の名前、安否の確認、これからの対応等、書き出し、携帯や携帯メールで、各自が、外出している社員や家族の安否の確認作業を行いました。2名の社員を残して(のちに無事が確認できた)、無事が確認出来て、16時半を回ったころでしょうか。とにかく、自宅に帰れるものは徒歩で帰り、家族と自宅の状況を確認することとなりました。帰り道は、歩道が人であふれ、ビルの外壁のタイルやガラスの一部が破損し、車は大渋滞。わたくしたちは五橋から愛宕大橋、286号線を通って各々の自宅に向かっておりました。
 そのときは、あの「大津波」が沿岸部を襲い、多くの命を奪ったことを知るすべもなく、帰宅後の携帯ラジオで知って、愕然としたまま、眠れぬ一夜を過ごしました。
 

◎2012.08.11(Sat)19:00pm 53歳
 今、わたしは、石巻市大門崎の「ツウィンクル」という、石巻中学校の同級生が営んでいる喫茶店に向かっております。

 そこは石巻魚市場から内陸側に400mほど入った場所で、まわりの家々が流失したにもかかわらず、彼女の喫茶店は奇跡的にフレームを残していて、中学時代の同級生の中で、建築をなりわいとしている連中が集まって修復して、昨年の7月に再オープンにこぎつけた場所です。

 中学3年の9月までを石巻中学校で過ごしたのですが、仙台への転校で石巻中学校の卒業アルバムに私は載っておりません。けれども、12歳から15歳という、多分、人生で一番、感受性や記憶が研ぎ澄まされているであろう時間を、石巻で過ごした私は、そこを離れても、いつも、浜辺の波音・十条製紙の酸っぱいにおい・川開きの花火の輝き・友達と過ごした日々を、思い出しておりました。

 昨年の1月に30年のゼネコン生活を離れて、仙台に戻った私は、2月から㈱関・空間設計にお世話になっております。その翌月にあの「わざわい」が襲ってまいりました。10日後の3月21日にやっと、得意先である女川町に向かうことが出来ました。女川町と弊社は、いろいろなプロジェクトでお世話になっているのと、高台にある女川町立病院を、公設民営化するための改修設計を進めている矢先でありました。国土交通省が「啓開」という、くしの歯作戦を施して、国道が女川町まで開かれていました。その途中で、何十年ぶりかで見た石巻は、根こそぎ破壊されておりました。鋼鉄は飴のように曲がり、コンクリートはなぎ倒され、自動車はいびつな姿で道路際に重なっていました。その時から私の心の中で、石巻中学校の仲間が無事でいることを祈り、皆に会いたいという思いが募っていきました。しばらくしてから、その「ツウィンクル」という場所が同級生のプラットホームになっていることを知り、私も、仕事で女川に出向いた帰りに旧友と語り合うことが、わたしの日常になりました。

 話を元に戻しますと、今日は3年7組の仲間がお盆で帰省するのと、在石の連中が集まるという連絡を受けて、これからみんなに会うところです。当時、石巻中学校の男子生徒は坊主頭が義務付けられていて、みんな同じヘアースタイルだったので、髪がなくなった連中に会っても違和感なく面影が判るのですが、その顔のしわやシミが、40年の歳月を刻んでおります。せめて、彼らの話を聞きながら石巻の未来を語ることしかできない私ですが、彼らとの日常をこれからも続けていこうと思っております。

 紙面をお借りして、被災された方々へお悔やみを申し上げ、早く、被災地が復興できることを願い、少しでも故郷の再生に関わることが出来ればと、思っております。


私のバトンは、鈴木浩二さん(42回生)に渡します。お楽しみに!

NO.11 クライストチャーチ便り 2012.12.04                      24回生 玉置 喜朗

 2003年暮、家内と2人でここクライストチャーチにやって来て以来、今年の12月で満9年になります。自然が豊富に残り羊が人間の数を上回ると言う南半球の美しい農業国がこの国の一般的なイメージですが、僕らもまた、忙しい横浜での生活に別れを告げ、のどかで平和な生活が待つ別天地のように思えました。
 

 ところがどっこい、着いて早々、厳しいストレスを経験することになりました。なんと泥棒!です。不動産屋から紹介された物件を何軒も見てまわって、ついに築30年位の借家を探し当てました。敷地は優に1000㎡を超え、うっそうとした緑に覆われた長い車寄せの先に赤いレンガ色の家。大家さんも親切そうな中国人で2人とも大満足。横浜から送った船便のコンテナも間もなく届き、家中そこかしこにまだ開けていない段ボール箱を残して、家内と二人で電子レンジを買いに近くの電気屋さんへ。電子レンジ置き場の寸法を測って来るのを忘れたのに気づいてまた家へUターン。その間、きっと30分から一時間以内の出来事です。僕は寸法を取り、家内はこのちょっとの隙にバスルームの掃除をしていました。すると「あれー、床に泥がついてる、何だろう、これ?」と家内の声。キッチンからバスルームに行ってみると「変だねー、何だろう?」と僕。そうこうしている内、窓が半開きの状態で戸締り用金物がブラブラの状態になっているのに気が付きます。改めて家の中を歩いてみると、食卓テーブルの上にあったPCが見えないではありませんか。だんだん胸騒ぎを覚え、「いや待てよ、確かにここに置いたはずだけど、」と、心当たりの場所を探していると、「もしかしたら泥棒じゃーない???」と心配そうな家内。「えー、まさか。でも、念のため大事なものがあるかどうか調べてみて。」と僕。家内が自分のものを調べると金のネックレスが数本、僕が寝室に置いていたバッグの中を調べてみたらMDプレーヤーや双眼鏡が見当たりません!もちろんPCはどこにも見つかりません。この時点でようやく2人とも合点。今思い出してもあの時のショックは忘れられません。僕らより少し遅れてニュージーランドに到着する予定だった愛犬の黒ラブ・キャリーが、もう何日か早く着いていればこんなことにはならなかったのに、と嘆いてみても後の祭り。しばらくの間、道ゆく人すべてが泥棒に見えました。
 

 予想外の事と言えば、昨年2月のクライストチャーチ大地震の事を書かない訳にはいきません。幸いにして僕らの個人的被害は軽微だったものの、市内の建物と市民の生活がメチャメチャになりました。1年以上たった今も、大聖堂を中心に市街地の一部はまだ立ち入り禁止で、被害を受けた建物の解体工事が続いています。雑誌SD8910「音楽のための空間」で、世界の名コンサートホール15選の一つとして紹介された当地のタウンホールも甚大な被害を受け現在も閉鎖中。また、160人を超えるこの地震の全犠牲者のうち、一か所だけで日本人留学生25人を含む100人以上の死者を出したCTVビルディングの崩壊事故については、王立事故調査委員会が今も開かれています。同世代の建物がほとんど生き残っているに何故この建物だけが崩壊したか、また前年9月にあった第一波の大きな地震の直後に構造診断をしたにもかかわらず何故5か月後のこの大惨事を回避できなかったか、が焦点です。以前構造設計に携わっていた頃、同僚たちの間で「大丈夫、この建物が壊れるくらいの大きな地震なら他の建物も壊れるから。」と芳しくない設計や施工を慰めあっていたことを思い出して、密かに肝を冷やしています。

 保険の査定結果がまだもらえない為に、今後の方針が決められず宙ぶらりんのまま、親戚の家に身を寄せていたり借家住まいを強いられている人も大勢いるようです。一方では被害が比較的軽微だったため早々と保険金をもらって、そのお金で修理もせずに海外旅行に行ったり車を買ったりしている輩もいるとの事。ムダ金も沢山ばら撒かれています。
 

もう一つ予想外の事を。先に書いた愛犬キャリーは、日本にいるときからお腹に小さい腫瘍持ちでした。何年も経過観察していましたが、こちらに来てから少しずつ大きくなり始めました。その頃オーストラリアにいた上の娘がどうしてもそばで看病したいとのことで、仕事を辞めて2007年に僕らに合流。キャリーはその年11月、彼女に看取られて最期は安楽死を遂げるのですが、一方娘の方はこちらに来て早々に良い人に巡り合い、翌年トントン拍子で結婚することに。「こんな物騒な世の中で子供は持てない」と言っていたのでこちらもそのつもりでしたが、昨年女の子を出産。と言う次第で、僕らの方は何の手配も努力もなしに自動的に爺婆に。「孫は可愛い」とはよく聞いてはいましたが、やはり僕らも御多分にもれずその典型。孫娘の顔を見ると無条件に自分の顔がほころぶのがわかります。
 

 当地の地震から1か月もしない内に、日本から衝撃的な津波の映像が飛び込みました。それに続く原子力発電所の事故。最悪の事態が回避できた事は不幸中の幸いでしたが、今後現れてくる子供たちへの健康被害が心配です。我々が学んだ青葉山の建築学科の建物も被災して取り壊しになるとの事、本当に残念です。
 世界で頻発する大地震、民衆の暴動と弾圧、テロ、銃の乱射事件と、次から次へと大事件が勃発する昨今です。聖書に、「---国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの劇痛の始まりです」(マタイ24:7-8)とあります。僕も遅まきながら、今聖書を勉強中です。

NO.10 Unveiled Network 2012.11.26                       TA 中田仁治

過去のWAWの様子(2010年度/オーストラリアにて)

過去のWAWの様子(2010年度/オーストラリアにて)

今年度の課題 /地下鉄東西線沿線地域の将来像を提案する

今年度の課題 /地下鉄東西線沿線地域の将来像を提案する

 国際建築ワークショップ(World Architecture Workshop/WAW)は、東北大学をはじめとする仙台の大学の建築学科が、フランスやオーストラリアなど世界各国の建築大学と共同で行う設計スタジオ(大学院設計課題・後期)です。毎年、世界各国における地域的な課題を取り上げて、その地域の全体像に関する将来計画や具体的な施設計画などを提案します。日本語、英語、フランス語といったように異なる言語圏の学生と建築家が、異なる思想的・文化的背景を比較しながらプロジェクトに取り組む国際交流プログラムでもあります。初対面の、国籍も受けてきた教育も違う他国の学生と一つのものをつくり上げる難しさや、2週間という短期間で成果を挙げるスピード感など、WAWには通常の設計課題とはひと味違った醍醐味があり、提案内容と同時に、ワークショップ期間を通じての成長が期待されます。

 今年度は、3年ぶりに日本(仙台)がホスト国となります。日本側の参加学生は、自宅に海外の参加学生をホームステイさせながらワークショップに取り組みます。

 今年度のテーマは“Unveiled Network”です。東日本大震災をきっかけに、我々はネットワークについて考え直させられました。戦後の高度成長期に本格的な道路整備が始まった日本では、急激な速さで主要な都市間に高密な交通ネットワークがはりめぐらされましたが、かつて海運で栄えた東北地方沿岸部はこの波にのることなく、これまで俗化されることなく固有の文化を形成してきました。しかし、大規模な津波により広域にわたり多くの集落が被災しました。復興プロセスにおいては、各地域が協同し、一体となって復興に取り組むことが必要とされますが、一方で、これは巨大なシステムが駆動し、一律の基準による道路・宅地の計画など、場所のアイデンティティが喪失されかねない状況を生んでいます。

 このような状況の中で、仙台市は被災地唯一の大都市であり、東北の再建にあたって大きな責任を担っています。震災前より予定されていた地下鉄東西線が平成27年に開業予定であり、これを機に仙台の街は再編され、観光・文化・産業など多様な分野がクロスオーバーしながら東北、全国、あるいは海外との人や物、情報の交流を生み出す街になろうとしています。新しく住宅地をつくるためではなく、それぞれに発展してきたエリアをつなぐための地下鉄開発。しかし、これまでの鉄道開発を省みれば、時間短縮のネットワーク化により、各エリアのアイデンティティが失われかねない状況であり、いかに場所のアイデンティティを保持/強調しながら、ネットワーク化するかが課題といえます。今年度のWAWでは、震災復興におけるネットワークの問題も視野に入れながら、ネットワーク化=グローバライズという問題意識から批評性をもって東西線沿線開発に取り組みます。

 ワークショップの成果は展示プレゼンテーションにより広く一般市民に公開するとともに、一冊の本として記録をまとめ、世界各地に向けて配布する予定です。また、最終日にはWAW創設10周年を記念するシンポジウムを開催し、これまでWAWに参加した学生や教員、地域の専門家をゲストに10年の歩みを振り、これからの国際建築教育のあり方について語り合います。
 

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国際建築ワークショップ10周年記念シンポジウム
『震災復興と国際建築教育』
日時:2012年12月8日(土)13:00~21:00
会場:卸町「ハトの家」
※一般公開・参加費無料